梅崎春生 桜島 日の果て 幻化
私の父は海軍兵学校を出た軍人であった。
講義中に小説を読んでいて取り上げられたというような風で、成績はたいしたことは無かったようだ。
終戦の年に卒業し実戦経験はない。
父の本棚には、吉村昭 戦艦武蔵、阿川弘之 山本五十六などが並んでいた。
帝国海軍の栄光と悲劇という類いの本だ。
梅崎春生の小説は読まなかっただろうと想像する。
梅崎春生は東大卒の召集兵で予備士官、海軍通信科二等兵曹。
招集されるまでは、配給の酒を飲むために昼から酒屋に行列し、招集後は暗号通信兵として震洋特別攻撃隊の基地に配属され、山中に保管された航空機用燃料(芋アルコール)を毎晩飲んでいたという。
そんな梅崎春生も、終戦の詔勅暗号により敗戦を知ったとき
ー壕を出ると、夕焼けが明るく海に映っていた。道は色褪せかけた黄昏を貫いていた。吉良兵曹長が先に立った。崖の上に、落日に染められた桜島岳があった。私が歩くに従って、樹木に見え隠れした、赤と青との濃淡に染められた山肌は、天上の美しさであった。石塊道を、吉良兵曹長に遅れまいと急ぎながら、突然瞼を焼くような熱い涙が、私の眼から流れ出た。拭いても拭いても、それはとめどなくしたたり落ちた。風景が涙の中で、歪みながら分裂した。私は歯を食いしばり、こみあげて来る嗚咽を押さえながら歩いた。頭の中に色んなものが入り乱れて、何が何だかはっきり判らなかった。悲しいのか、それも判らなかった。ただ涙だけが、次から次へ、瞼にあふれた。掌で顔をおおい、私はよろめきながら、坂道を一歩一歩下って行った。ー
と書いている。
しかし、他の作品では「敗戦の喜び」とも記している。
梅崎春生が8月15日に敗戦の喜びを感じたことに、私は驚いた。
前線の戦況を知らせる暗号を日々受けていることで、梅崎は敗戦を確信していたのか。
軍が敗戦を認めたこと、日本が徹底抗戦の破滅を選ばなかったことを喜んだのか。
敗戦の喜びという文章は今まで見たことがなかった。
「耐え難きを耐え、忍び難きを忍び」という玉音放送は、戦後世代の日本人にも胸に迫るものがあると思う。
そうじゃないのだろうか。